ビブリア古書堂の事件手帖(映画)がワーストだった理由
「ビブリア古書堂の事件手帖」の映画を劇場で見てきました。
どのように物語を描くか、いくぶんかの期待を持っていただけに、あまりのひどさに落胆というより憤りさえ覚えました。
なぜ駄目なのか書いてみます。
この感想は「ビブリア古書堂の事件手帖」の原作の愛好者のものです。
この映画も「ビブリア古書堂の事件手帖」の名前を冠していなければ、単につまらない映画で済ませられます。
ただ、名前を冠しているので、この映画の感想は原作の名誉のためでもあります。
まだ見られていないかたは、筋の説明があるのでご承知おきください。
映画の主題が不明というか、主題自体を製作者がまったく分かっていない
まず映画は五浦大輔(副主人公)が祖母の遺影を掲げている葬列のシーンから始まる。
まずこのシーンからして違和感がある。
いまどきこのような葬列は田舎の野辺送りにしかないのではないか。
もちろん、映画は日常ではないしデフォルメ・誇張も許容される。
ついでに言っておくと、原作の映画化が原作そのものでなく、ある程度の改変・創作は許されることは承知している。
まあ、この違和感はいいとしよう。
問題は、この映画全体に渡ってこの祖母の恋愛が並行して描かれていることだ。
原作にもこの恋愛は重要な挿話として描かれているが、あくまで篠川栞子(主人公)の天才的な推理力を示す材料としてだ。恋愛の詳細は描かれてないし、その必要性もない。
そもそも、観客はなんのために映画を見に来ているのかが、映画のプロデューサーにはまったく分かっていない。
正直、祖母の恋愛模様などどうでもいいのである。
観客はビブリア古書堂店主・栞子の映画ならでは息遣い・活躍が見たいのである。
原作を未読の観客にしても期待するものは同じであろう。
「古書堂」・「事件手帖」の意味するものは古書に係るミステリーのはずだ。
無駄な恋愛沙汰や原作の改変のために主筋がぼやけ、栞子も平凡な古書店主に
祖母の恋愛に時間をとられ、短くせざるを得なかったためか、本をめぐる本筋の展開も大幅に改変・省略され、杜撰かつ稚拙なものとなっている。
脚本の出来が悪いのがすべてともいえるが、この脚本で良しとした監督の責任も無いとは言えないだろう。
描くべき主題を理解していないプロデューサーだから仕方がないと言えるが、それにしてもひどい仕上がりである。
まともなディテールがないので、個別の細部を批判しても仕方ないが、原作を改変した部分はすべて繊細な物語のレベルを嫌になるほど下げている。
物語で重要なステージになる、大輔が本を奪われる経緯も、改変されて簡単に誰でも犯人が分かる稚拙な筋になってしまっている。
ところが、天才的な推理力を持っている栞子がすぐに犯人が分からないとはどういうことなのか?
また、最終的に犯人に追い詰められて栞子がとる行動も原作改変により底の浅いものとなってしまっている。
映画の救いは、栞子と黒木華のイメージがあっている点であろう。
ただ脚本・演出は、このせっかくの素材を生かすことが出来ていなかった。
黒木華の栞子で脇道に逸れず本筋に集中した映画にすれば、良い映画になった可能性は大きいのが残念である。
原作に触れていない観客がこの映画のレベルで原作のレベル・魅力を判断しないでくれることを願うことしかない。
まとめ
「ビブリア古書堂の事件手帖」の主な魅力は栞子の推理の冴えです。
原作を改変するとしても、原作へのリスペクトは最低限必要でしょう。
また、映画は原作に触れていない観客に対して、原作を読みたい気持ちにさせることも主要な目的ではないでしょうか。
原作と映画双方がそれぞれの特色を生かして物語の魅力を増幅することが映画化の理想だと考えますが、あくまで主役は原作です。
その意味で、原作の魅力を貶めたとしか言いようのない本作は失敗作というしかないのが残念です。